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人別送りの事(「貴達家文書」より)
鹿嶋市宮中大町地区の貴達家に伝わる古文書から「人別送り状」をご紹介します。
(解読:鹿嶋古文書学習会)
人別送之事
古文書
(貴達家文書より 個人蔵)
解読
人別送之事
一女壱人 て以
とし
拾八才
右者當村兵内次女其御町貴達利衛門娵ニ
縁付参候ニ付當村人別帳相除候間其御町
人別帳江御組入被成候此者儀ニ付他所出入
掛り合ホ無之候 以上
水戸御領
天保二年卯六月 玉造濱村
兼帯庄屋
大塲惣介 印
鹿島御神領
大町
御名主
縫右衛門様
現代語訳
「人別送りの事」
一、女一人 てい 年十八才
右は当村兵内の次女が、
御町の貴達利衛門の嫁に縁付きました。
よって当村の人別帳から除きますので、
御町の人別帳へお組み入れ下さい。
この者に付いては他所から苦情がましき儀など
ございません 以上
天保二年卯六月 水戸御領玉造浜村
兼帯庄屋 大塲惣介
鹿島御神領
大町御名主 縫右衛門様
解説
「人別送」とは、縁組・奉公・転居などで住居を移す際の送籍手続きで、今回の古文書は、天保2年(1831)、鹿島の貴達利衛門と玉造浜村(現在の行方市)の兵内の次女ていの婚姻に伴い、玉造浜村の兼帯庄屋*1大塲惣介が鹿島大町名主縫右衛門に宛てた「人別送状」です。ていが貴達家に嫁入りし、玉造浜村の「人別帳」を抜けるので、大町の「人別帳」に加えてください、という内容です。
夫役賦課を目的に、領主が支配する地域を対象に行う人口調査を人別改めといい、それによって作られた帳簿が「人別帳」です。江戸時代では、キリシタン禁圧のために、宗門改めと複合された「宗門人別改帳」が村ごとに作成されており、人別送状にも宗旨名が記されることもありますが、ここでは触れられていません。
貴達利衛門は宮中大町の商人で、屋号は「鍛冶屋」でした。利衛門の子平蔵は、鹿島神領の財政係も務めたこともありました。
行方から鹿島へと嫁いできたていですが、かつては「娘を鹿島(現鹿嶋市宮中地区)に嫁に出すな。」という言い伝えがありました。貴達家のある大町を含む現在の鹿嶋市宮中地区は海抜30数mの鹿島台地上にあり、朝晩の水汲みが非常に大変な作業だったことに由来します。ていも水汲みに苦労したかもしれません。
参考:七つ井戸
村役人のトップは、一般に関東では名主、関西では庄屋ですが、水戸領では庄屋と呼ばれていました。この文書の差出人である玉造の兼帯庄屋大塲惣介は、水戸南領の大山守*2も務めた名望家でした。「大塲家住宅」は茨城県指定有形文化財<外部リンク>として現在も保存されています。
貴達家には、今回ご紹介した古文書の他にも「御奉公人御請證文之事」という女中奉公に関する文書もあります。天保4年(1833)、粟生村(現在の鹿嶋市粟生地区)の「とは」は、年季2両2分で貴達家に奉公に来たことが記されています。
*1 兼帯庄屋…複数の村の庄屋を兼任する庄屋のこと。大塲家は、時期により玉造村庄屋、浜村庄屋、谷島村庄屋を兼帯していた。
*2 大山守…水戸藩直轄の山林である御立山を郷村で直接管理する役職。やがて諸税の徴収、紛争の仲裁などの民政、さらには藩命により隠密的な任務も果たすようになり、地方の有力者が世襲することが多かった。玉造地方では大塲家が代々世襲していた。
参考文献
『玉造町史』(昭和60年11月 玉造町史編さん委員会編)
『国史大辞典』(昭和61年11月 吉川弘文館)
『古文書用語大辞典』(平成18年4月 新人物往来社)