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「大小志崎」地名の由来と歴史
大小志崎(だいしょうしざき)の地名の由来と歴史
大小志崎は、「常陸国鹿島郡惣郷高目録記録」(鹿島惣大行事家文書) によれば、中世、鹿島氏族林氏領時は、志崎村(高921石2斗5升4合)の内に含まれており、独立した一村を形成してはいませんでした。
元亀年中(1570~72)に日向寺左馬之介国春(ひゅうがじさまのすけくにはる)が志崎の地に土着したことが「日向寺家文書」に見られますが、同氏一族が大小志崎に集中することから、本村である志崎の湖岸部ではなく、直接大小志崎の海岸部へ入植したことが窺われます。彼らは開村初期の草分けで、絹張(きぬばり)家など大小志崎に限られた家名もあり、志崎からの分村とはいっても、多くは中世末の入村、開拓地であることが窺われます。
慶長7年(1602)に行われた検地を記録する『御縄打水帳』(日向寺家文書)によれば、この時には大志崎・小志崎で一村を構成していました。その後、大志崎村・小志崎村の二村に分村独立し(『鹿島郡郷土史(政教新聞社蔵版)』には「寛永以後」とあります)、幕末から明治初年にかけて再び合併して一村になりました。
当初、峰山の中段から下段にかけて居を構えた人々も、海岸線の『クネ』延伸と生業との関わりから防風・防砂の対策としてクネ(高堀=タカボリ)を設け、用水と水田を確保しながら、浜へ家屋を一部移動したり、網小屋を設けました。
集落の形成に関わるものとして、『御縄打水帳』には、「釜前・釜分・おうしざき釜」の字名があることから、製塩のために「おうしざきがま」が開かれ、「釜分」としての「小志崎」が形成されていったものととも考えられます。
本大字は、中世期塩焚きによる人の動きはありましたが、16世紀後半から諸氏が入植、集落を構成しながら、近世期鹿島浦での漁業(地引網漁)が盛んに行われるようになって、現集落としての形成を遂げていったものと思われます。
生産と流通
大小志崎は、台地の根と峰山に開けた集落であり、海岸の砂地は耕作地に適さず、畑地の多くは西側の台地上にあり、集落内には、屋敷畑が形成され、水田は西側の台地と集落の間に細長く開田された掘り下げ水田です。
慶長検地の記録では、農産物の多くが畑作であることが窺われます。畑作としては、大麦・小麦・菜種・稗・粟・大豆などが主で、蔬菜類としては、大根・人参・牛蒡・瓜類・茄子・南瓜などで、蔬菜の殆どは自家用でした。
漁業は、主として地引き網漁が操業され、鹿島浦の豊富な鰯は、天日乾燥され「赤鰯(あかいわし)(干鰯)」として水田などの肥料用に、北浦の河岸から出荷されました。
宝永4年(1707)の小志崎村地曳網魚獲配分をめぐる訴状からら延宝年間に二張で操業していたことが窺われます。また、江戸中期頃には地元の網主が操業を始めていたこともわかります。この他にも「こだま掻き漁」が盛んで、干し蛤として加工、出荷されていきました。
これらの海産物を運搬し、また、集落間の往来が頻繁になると、海岸集落は「根道(ねみち)」と呼ばれる台地の峰下の道で連結されました。大小志崎と湖岸の志崎間には、「志崎道」が整備されます。別名を「地曳道」ともいわれ、約3キロメートルの行程です。
文化財と名所・史跡
ハマナス自生南限地帯
大字大小志崎地先の海浜に自生します。大正11年3月8日天然記念物として当時の内務省に指定を受けました。(詳細は「ハマナス自生南限地帯」を参照。)
鎧塚
大字大小志崎字北山にあり、八幡太郎義家が奥州征伐の途中にこの地を通り、鎧武者を鎧のまま葬ったと伝えられています。
延命寺
小志崎に創建された真言宗智山派の寺です。
明和5年(1768)漁業運上金の賦課と高請け人の不正に憤慨した漁民が騒動を起こし、鹿島浦17ケ村の漁民が延命寺に集結した事件がありました。取調を受けた延命寺の住職は「延命寺は九間四方もある大きい寺であるので、誰がどこでどんな話をしたか、一向存じません」と言い逃れたといます。往時の寺の繁栄を窺わせる説話で3人の名主は八丈島、大島にそれぞれ島流しになり蟄居閉門にされました。
伝承・伝説
日向寺一族の土着
大小志崎の日向寺氏は、八田氏族で36家が土着し、鹿島浦へは勝下(現鉾田市勝下)、大小志崎、下津、奈良毛の地に分かれ住んだと伝えられます。
「日向寺家文書」では、同氏は、常陸守護職八田知家の一族で筑波郡東条庄日向寺の地に居住しました。南北朝争乱の時、延元3年(1338)南朝方である陸奥介鎮守府将軍北畠顕信は父親房等と共に後醍醐天皇の皇子義良親王、宗良親王を奉じ、50余艘の船団と連ねて、伊勢の大湊を発し奥州へ向かいます。9月、天竜灘付近で嵐に遭い、船団は離散し、親房等の乗った船は鹿島浦に漂着。関城主関宗祐がこれを迎え、一行は神宮寺城(現在の稲敷市)に入ります
神宮寺城は北朝方の佐竹・鹿島・行方勢に攻め立てられ阿波崎城(現在の稲敷市)に移りますが、ここも落城。親房は小田治久に迎えられ、小田城(現在のつくば市)に入ります。
この時、日向寺一族は親房に従って、北朝方と戦いました。興国11年(1341)高師冬が大軍を率いて小田城を攻略し、小田治久は遂に北朝方に降伏します。
しかし、日向寺一族は親房に従って関城(現在の筑西市)に移り奮戦。やがて関城でも破れ、親房は吉野へ、日向寺一族は鹿島氏を頼って逃れ、後、常陸府中(現在の石岡市)の大掾清幹に仕えました。
元亀年中(1570~72)大掾氏が佐竹・北条の軍勢と戦った時、下野国佐野(現在の栃木県佐野市)の陣にあった日向寺掃部介昌秀の弟左馬介国治は、志崎の地に落ち延びたといいます。
天正19年(1591)府中落城とともに、兄昌秀は子国広、孫又太郎・七郎三郎等と勝下の地に落ちのび土着したと家伝文書は伝えています。