本文
十、江戸時代末期~明治初期の鹿島と宮中村の火事
(『櫻齋随筆』より)
ここでは江戸後期(1863年)~明治12年(1879年)の間に起こった火事や怪奇現象について書かれています。
- 文久三年 大宮司家に現れた妖火
- 慶應二年 雀の戦争
- 慶應三年二月 宮中村の火事
- 慶應三年十一月 宮中村の火事・大鳥居の炎焼
- 明治元年 井戸の枯渇・赤気の出現
- 明治四年~明治十二年 宮中村の火事
文久三年 大宮司家に現れた妖火
読み下し文
- 文久三年癸亥十一月朔日の夜五半時頃、予が宅奥座敷、予が、居十畳敷き也。南の方欄間の壁へ妖火現る。形丸くして、わたり四寸程、常の陽火の如く赫熒たり。
この時、燈消して暗夜也。予が妻は末女を抱き外しており、予は在府にて、側には、幼年の下女、一人他たり。 - 妻は久しく見て居りしが、不思儀ゆへ下女を、呼び起したれども、驚怖して、起出でず故に、別間に外れたる、則文を呼び起し其様を物語りければ、則文は、次の間まで走り来る時、妖火は、忽ち消失せて跡もなし。家来村田正一郎も、台所より走り来りけるが、廊下の辺にて妖火を、チラリと見たりと云う。その後更に行えを知らず。
- 同月十三日より、水戸浪士、俗に天狗党と称する、暴徒数十人、神領中、下生、根本寺に屯集して、近村を騒動し、後に、予父子、大難に遇たる、凶兆なるべし。
解説
- 文久3年(1863年)11月1日に則孝公の自宅に現れた妖火について書かれています。夜五つ半時とは、夜9時頃です。直径4寸ほどの丸い妖火は、則孝公が(江戸に居て)不在の際に出現したと書かれています。
- 〔意訳〕妻はしばらくその火を見ていたが、不思議に思って傍にいた幼い下女を呼んだ。下女は恐怖で起きて来られず、妻は別間にいた則文(息子)を呼んだが、則文が走ってくる間に妖火は消えてしまった。台所から駆けつけた家来の村田正一郎も、廊下のあたりで妖火をちらりと見たという。
- 〔意訳〕この怪奇現象は、同月13日に天狗党と称する水戸浪士の暴徒らが根本寺(鹿嶋市下生)に頓集して近隣を騒がし、その騒動で後に私たち親子が大難に合う凶兆だったのだろう。
※「鹿島神宮に神武館を建て攘夷運動の拠点にしよう」と天狗党の浪士らが活動していたために、その騒動に加担したとみなされ、息子則文氏は八丈島へ流罪になり、則孝公自身も大宮司の職を召し上げられるなどの処罰を幕府から受けました。
慶應二年 雀の戦争
読み下し文
- 慶應二年、丙寅、七月中旬、日々宮中にて、宮下辺、雀の戦争あり。
- 双方に烏一羽づつ、将帥の如く見えたり。
- 数日にして止む。
- 明治元年、本国及び総野近刻に、戦争ある凶兆にや。
解説
慶應二年(1866年)7月に則孝公が見たという「雀の戦争」の様子が綴られています。「宮下」とは、鹿島神宮北側に隣接している地区です。雀の群れに、双方カラスが一羽づつおり、まるで指揮官のようだったとあります。
なんだか可愛らしい様子にも見えますが、則孝公は、数日続いたこの雀の戦争は、「明治元年(1868年)の戦争の凶兆だろう」と書いています。
1868年は慶應4年であり明治元年です。江戸から明治へと時代が移行していく中で、日本各地で旧幕府勢力と明治新政府勢力との争乱が起きました。
慶應三年二月 宮中村の火事
読み下し文
- 同三年、丁卯、二月十九日、西南風烈しく吹く。
- 夕七ッ半時頃、中町、伊兵衛後家同居、某宅より出火。
- 同町及び桜町五軒町、又構内笹沼栄三郎など類焼す。
- この散火、予が宅の家根へ五ヶ所燃え付き、ようやく消し止めたり。
- 立原常足よく消防せり。今夜、風北に替り雨降る故、早く鎮火。
解説
ここでは慶應三年2月に起こった宮中地区の火事について記載されています。夕方七ッ半時頃(5時頃)に中町(仲町)から出火した火災は、西南の激しい風に煽られて仲町地区5軒・桜町地区5軒等に燃え移り、則孝公の家の屋根にも火の粉が燃え付いたと書かれています。
慶應三年十一月 宮中村の火事・大鳥居の炎焼
読み下し文
- 同、十一月二日、五軒類焼。二ノ鳥居、炎焼す。
- これ、先十月晦日夜、則瓊君隠居後にて、狐コンコンと二聲啼たり。
- 又後に聞けば同夜には、大町にても狐コンコンと啼きたり。凶兆か。二度とも焚出し飯等施こす。
解説
同じ年、11月にも民家5軒が類焼する火事が起き、鹿島神宮の大鳥居も被害にあったことが記されています。前月末日の夜に父則瓊公の隠居の裏で狐がコンコンと鳴いたこと、また大町でも狐が鳴いていたとのことで、則孝公はこの狐の鳴き声は「凶兆か」と書いています。
明治元年 井戸の枯渇・赤気の出現
読み下し
(1)明治元年、戊辰、正月下旬より二月に至り、鹿島宮中諸所、井の水渇たり。予が邸の井も掘らせたり。諸方にても大方は掘りたりと。是は今年、霖雨の兆なるべし。(略)
(2)同二月二十日、夕七ッ時、北方に当たりて赤氣立ち、乾より、艮に渡り、其色の如くにて、地上の物皆映ず。是は本年、奥羽二国の戦闘、また北海道、同断の凶兆なるべし。
解説
(1)では明治元年1月下旬~2月に宮中地区の各井戸が枯れてしまうという事態が起きたことが記されています。
(2)では明治元年2月20日に現れた赤気(せっき)について書かれています。
(※赤気・・・夜、もしくは夕方、空に現れる赤色の雲気。[日本国語大辞典より])
〔意訳〕夕方の七ッ時(4時頃)に北方の空に赤気が立ち、北西(乾:いぬい)から北東(艮:うしとら)にかけて、その色の如く、地上の景色が皆映された。これはこの年の東北地方と北海道に起こる戦闘の凶兆だろう。
明治元年(慶應4年)は戊辰戦争が起こり、東北地方では、薩摩藩・長州藩(新政府勢力)と奥羽越列藩同盟の東北諸藩が激しく戦いました。この戦争で、長岡城(新潟県)・白河城(福島県白河)・鶴ヶ城(福島県会津若松)などが落城し、多くの人が知る「白虎隊の悲劇」などを生じました。
北海道では、戊辰戦争最後の戦いと言われる「箱館戦争」が起こり、幕臣榎本武揚が率いる旧幕府勢力と明治新政府軍が五稜郭を中心に戦火を交え、翌明治2年まで約7か月間戦争が続きました。
明治四年~明治十二年 宮中村の火事
ここでは明治4年~明治12年にかけて起こった宮中村の火事について書かれています。
読み下し文
(1)同四年辛未二月二十五日、南風吹夜、大町、北宿山中より出火。
大町、数軒類焼す。近年、稀なる大火なり。施與同上。
(2)同年、十二月朔日、深夜桜町、中根某より出火、四軒類焼す。
同月、二十日夜、祭事殿(米盛和一郎亮道邸中、旧名祭當殿なり)及び護国院・普濟寺など焼失。三ヶ所とも、つけ火也。但、類焼はなし。
同五年、壬申、二月四日、深夜、構内内田蔀宅焼失、つけ火也。類焼はなし。
同十一年、戊寅、三月十七日、夜、桜町宮本作右衛門、物置より失火。つけ火なり。七軒類焼す。
明治十二年、(中略)十一月五日夜、小神野治行家焼亡。但つけ火也。同人は、茨城県下、上市に住居にて、栗林の旧宅には、留守居某居たるが、その夜は他処に止宿すと。惜むべし秀行朝臣の像、焼亡す。
解説
(1)〔意訳〕明治4年2月25日大町地区で数軒を類焼する火事が発生した。近年稀にみる大火だった。
(2)〔意訳〕明治4年12月1日深夜、桜町の中根という家から出火し、4軒が類焼した。同月20日夜には、放火により米盛氏の邸宅の祭事殿と護国院・普済寺が焼失し、翌年2月4日にも放火により内田氏の家が焼失した。
明治11年3月17日にも放火により桜町地区の宮本氏の物置から出火し、7軒を類焼する火災になった。
また明治12年11月15日夜、放火により小神野氏の家が焼失し、秀行朝臣の像が惜しくも焼亡した。
明治4年~12年にかけて随分多くの放火が発生していますが、当時の宮中村の人々はどれほど不安だったでしょう。
小神野氏の家と共に焼失したという「秀行朝臣の像」とは、武甕槌神(鹿島神宮の御祭神)が鹿島から春日大社へ向かわれる際に供として同行した中臣秀行の像だと思われます。