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「鹿島神宮祭典旧儀取調調書」に記された祭頭祭の流れ

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記事ID:0050073 更新日:2022年6月24日更新

【当番字の決定】2月15日の夜

 神宮寺の本堂内において、翌年の祭頭祭の当番村を定める。(これを「差符(さしぶ)」という)。
 鹿島神宮の氏子は六十六村あり、その村ごとに神宮寺・廣徳寺・正等寺などの末社があって、この末社に「右方・左方」の寺格がある。
 まず、鹿島神宮の南北から、以前当番になってから年数が経っている寺を左右三寺選び、村名と寺名を書いたものを惣代行事の後ろに置いく。惣代行事が筆を執って、後ろに墨を点し、墨がついた寺を翌年の祭頭祭当番と定める。(これを「後点(うしろてん)」「爪点(つめてん)」という。)
 そしてその墨のついたものを封緘して、神前に備え、鹿島神宮の本宮内に持ってくるしたこれを開いて「左方 何村 何寺」と読みあげ、これをもって翌年の当番が決定する。

【鹿島神宮の御分霊を当番村に移す】2月18日

 2月18日をもって「物申(ものもうし)」と呼ばれる神官が左右の当番へ御札を下す。(これを「御注連縄(おしめかけ)」ともいう。)神宮の御分霊を移す式典が行われ、当番村に御分霊が移される。
 この日から、頭人の僧が、毎日鹿島神宮や諸末社を巡拝する百日日参を始める。満参の日に百日修行の読経の目録を書き記した札を神宮と寺堂に納める。(これを「札納め」という。)そしてその旨を記した文を、神宮・寺院・その村の領主・地頭に進呈する。


一年後↓


【御児が鹿島神宮へ参宮する】2月1日~15日

 頭に瓔珞(ようらく)という仏教式の飾りを頭に付け、錦繍の着物を着、手に儀式用の扇をもった各当番村の御児(子ども)が、多くの従者を引き連れ肩車に乗って毎参宮する。御児は祭頭祭が終わるまで地に足をつけないという。

【鹿島神宮の御分霊を奉還する儀式を行う】2月9日(左方)、2月10日(左方)

 物申の神官が、鎗(やり)を立てて馬に乗り、従者を引き連れて、村に祀られた鹿島神宮の御分霊をお返しする祭祀を行う。ここに神宮寺・廣徳寺・正等寺の僧らが輿に乗ってやってくるほか、村長や頭人らが列席して、三々九度や謡曲などの種々の作法が行われる。

【常楽会】2月5日・8日・13日

 当番の寺院の会式がある。これがすなわち「常楽会」である。御児が着座し、左右に僧侶が集まって鉾面や釣船等の故実があり、また笛に合わせて両御児が舞を舞う。

【2月14日~15日】

 14日、市中の子供らが両御児に従って、太鼓をたたいて祭頭を唄いながら参宮し、神宮寺を巡回する。15日夜も多くの人が両御児に引き続いて鹿島神宮本殿前と神宮寺本堂までに座って舞や音楽を奏でる。

【祭頭祭当日】2月15日

 大将の恰好をした「新発意」(しぼち)と呼ばれる子どもが肩車に乗せられ、「新発意」を先頭に、各村の棒を合わせ祭歌を唱い、右方左方の二手に分かれて鹿島神宮に参宮する。参宮後、神宮寺へ囃子回る。
 夜、神宮寺堂内で神宮寺僧侶・両新発意・村長・頭人・氏子などが集まり、「不開宮(あかずのみや)」に供物を捧げて読経する。そして外では群衆が大豊竹と万燈などを引き、本堂を三回廻る。
 これが終わると翌年の当番字を決める儀式が行われる。


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