本文
『鹿島志』に記された祭頭祭
『鹿島志』文政七年(1824年刊)北条時鄰著
意訳
毎年2月15日に常楽会の仏事が神宮寺で行われる。これを祭頭という。昼と夜に行われ、まず昼には、鹿島神宮を中心に上下の村々の末寺など、が「右方」「左方」と称して毎年順番に祭の当番を務める。この祭頭祭の当番に当たった上下の村が左右二手に分かれて、それぞれ甲冑を着た「新発意」(しぼち)を大将に立てて、新発意を先頭に進む。新発意の次に、数多の警護の武士が陣笠を被ってこれに連なり、次に軍卒など村印の旗を立て、思い思いの装束をなした村人が、樫の棒を持って「祭頭ひあら 御利生がや 面白や」と囃子棒を一箇所に寄せて打ちあい、太鼓を叩いて、ほら貝を吹いて鹿島神宮に詣でる。そして物申し禰宜が寺院などに打ち回り、神宮寺に囃子いたる。
夜になるとまた鹿島神宮にお参りする。そして楼門の内に舞台を設置し、新発意が篝(かがり)を焼き、正等寺と広徳寺から子ども二人を出して、舞を舞わせる。この時、大豊竹2本を担って、神宮寺では囃子人らが手々に提灯を持ってそれを振り上げ、本堂の四面を巡り歩って囃す。舞を舞う子どもらは正月末日からお寺に籠り、お寺から日々鹿島神宮に通って稽古をする。
そもそも当日は、仏教の釈迦入滅日であって神道では何でもない日であり、神宮においても関わりのない行事であるといえる。昼の様は、鹿島香取の上古の神軍の様を象って(古代の蝦夷東征)、常楽会に混合したものなのだろう。
またある説では、「祭頭は、柴燈であり、修験の柴燈護摩からきた名前である。」とも言われている。
毎年多くの祭礼が行われるが、特にこの祭頭祭の日は、近国はもとより遠くの国からも噂を聞いた人々が大勢集まってくる。
メモ
国学者である時鄰は「祭頭祭は仏事であり神宮の行事ではない。」と書いていますが、当時の民衆も同じ認識であったのでしょうか。神仏混淆の時代、民衆は神社と寺をそれほど分けて考えていなかったと言われており、民衆にとっては祭頭祭が神仏どちらの行事であるかを意識していなかったのではないかとも考えられます。それを、国学者である時鄰が「仏事」であると改めて啓蒙している文章のようにも読めます。
また、楼門の前で子どもが舞を披露したり、夜の祭頭があったりなど現在にはない行事が行われいたり、「祭頭ひあら 御利生がや 面白や」という現在では使われていない囃子言葉もあり、とても興味深いです。