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『廿八社略縁誌』に記された祭頭祭

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記事ID:0050071 更新日:2021年3月29日更新

『廿八社略縁誌』寛政九年(1795年)石井脩融著

意訳

2月15日斉藤祭(原文ママ)が行われる。前日の14日の夜から神官や氏子が、鹿島神宮の神前に集まり、子ども2人が菊の花笠を被って歌い踊る。俗に、この子どもらを「御児(みこ)」という。15日になると神官・氏子が大勢集まって「政道祭(原文ママ)」が行われる。

祭頭祭は、鹿島郡内の六十六の村を左右に分けて、三十三村を左方、三十三村を右方に定めて、毎年その中から2村が、左方・右方のそれぞれの「大頭(だいとう)」となる。大頭に当たった村は、その村の寺院に鹿島神宮の大神を勧請し、その日から住職は斎戒などを厳重に行い、100日間の間、晴れても雨が降っても遠近を厭わず鹿島神宮にお参りして物を置く。これは、天下泰平と年穀成就を祈るためである。

15日の明け方に、まず左方の村が鹿島神宮の神前に到着する。その行列は厳かで、最前列に鳥毛様のものを被った子どもがいる。この被り物は俗にいうササラ獅子に似ている。これを祭頭坊主という。
これに続き、着飾った装束を着た勇壮な壮士が、数百人。乱髪に鉢巻をしめ、襦袢を着て、襷をかけ、手に棒を持ち、左方・右方の壮士が同じように大声で囃して行列をなして進む。それはまさに古代の悪路王退治のような様である。
終日宮中を徘徊し、もし間違って左方と右方がばったりと出会ってしまった場合は、お互いに大いに挑みあい、まるで軍中かのように生死を厭わない争乱になる。だから、左方と右方は鉢合わせしないよう巡行する。
この祭は古くから、西を先にして東西に分かれて回るので、「西東祭」と言われるのである。俗説だが、悪鬼が居るので西から攻防するのだとも言われている。
また、この祭が古くからの様式を残しているため、後世になって「政道祭」と言われるようになったとも言われる。「斎藤」と書くこともあるが、今は「祭頭」というのが本説になっているのであろうか。

さて、同日の酉の刻に神宮寺本堂で、5つの寺院の50人の僧侶が集まり、終夜密法を行う。本堂の外では、子ども2人が椿の花笠を被って歌い舞う。また、数百の壮士が、大豊竹を先頭に立てて行列をなして動く。
法用が終わると、物申職の禰宜が「来年の大頭は何村」と告げる。

この祭礼を「祭頭祭」と称して、翌年も次の村が同じように祭礼を勤める。祭頭祭の日は、身分の高い者も低い者も、また遠くからも近くからも、男女が集まって宮中の町中が最も賑やかである。


メモ:祭頭祭の名称の由来について、「西東祭」や「政道祭」などを挙げています。そういえば、祭頭祭のことを地元のお年寄り達は、「せーどー」もしくは「せーど」と呼びます。「さいとう」が訛って「せーどー」なのか、「政道祭」と呼ばれていた名残なのか。どうなのでしょうか。

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