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大塚古墳(おおつかこふん)
記事ID:0067278
更新日:2022年11月7日更新
昭和57(1982)年の夏、宮中野古墳群にある大塚古墳の発掘調査が明治大学によって行われ、帆立貝式古墳の前庭部から主体部が検出されました。周堀から墓道が造られており「横口式石郭(よこぐちしきせっかく)」と呼ばれる他では類例の少ない珍しい構造であることがわかりました。残念ながら主体部は滅茶苦茶に破壊されており、被葬者が誰なのかはわかりませんでした。ただ、石室に残された副葬品の出土状況から、銀象嵌の施された鉄製の円頭柄頭や銀製弓弭金具、銀製刀子など、いずれも類例が少ないもので、他の馬具類や武器類の残片を見ても貴重なものが多く、当時としては高貴で権力をもった人物であろうと推定されています。
大塚古墳は別名「勅使塚」と呼ばれ、一説では国からやってきた役人が病で倒れ葬られたといわれていますが、真実は定かではありません。
■参考文献
- 「図説 鹿嶋の歴史 原始・古代編」平成18年3月31日 財団法人鹿嶋市文化スポーツ振興事業団発行
- 「鹿島町の文化財第25集 宮中野古墳群発掘調査概報 ―昭和56年度―」 昭和57年3月31日 茨城県鹿島町教育委員会発行