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「粟生」地名の由来と歴史

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記事ID:0050008 更新日:2023年5月24日更新

粟生(あおう)の地名の由来

  1. 穀物の「粟」が生えている所から粟生とする説
  2. 全国的に湿地の多い場所に「粟生」という地名が付けられていることが多いことから、湿地の多い所という説があります。

 粟生を地形的に見ると、

  • 粟生城のあった台地の周辺三方が湿地・湿田になっていた。
  • 台地の畑面積は狭小であり、粟など多くは作れない。
  • 東部は砂丘地帯で未開発地、南西部は水田地帯。

という特徴があり、地名辞典によれば、「あお、あわは湿地を表す意」などと述べられていることから「粟生」は、「湿地の多い所から由来した」という説の方が有力であると考えられます。

粟生の歴史

粟生城

 粟生には、城跡があり、東側を御城(みじょう)、西側を内御城、北を外城(とじょう)と呼んでいました。

 この城は古い時代から存在し、当初は花山城(かざんじょう)と呼ばれていたと伝えられていますが、鎌倉時代に鹿島宗幹の子ども幹実が改築して居城とし、粟生氏を名乗ったため、粟生城と呼ばれるようになったといわれています。のちの戦国時代に、粟生氏と同族の石神氏(神栖市石神)との間にいさかいが起こり、喧嘩両成敗により両氏は断絶し、粟生城は廃城しました。
 昭和16年、太平洋戦争中に飛行場が建設されるに伴い、この城跡の表土が運び出され、さらに昭和50年頃の鹿島開発で残る土が運び出されて、城跡の形状は失われてしまいました。

江戸時代

 江戸初期まで当地は佐竹氏領でしたが、後、旗本領となりました。寛永10年(1633)の鹿島郡中高改帳には、「村高1217石余(粟生郷4か村)」とあり、旗本の丸毛・飯田・池田・三宅・小野の各氏が各200石、戸田氏が217石余を領していました。
 元禄期には、村高339余と大幅に減石しました。延享3年(1746)には粟生村知行として長谷川久太夫・阿部百治郎・山岡五郎作・伏見織部・小野彦十郎の5名が認められました。
 寺社は真言宗成就院、永福寺、平光寺、千手院の四つのお寺がありましたが、明治になり寺院の統廃合が行われて、平光寺に併合されました。なお、このほかに字ジムデンに開起寺という寺があったと記録されています。

明治から現代へ

 明治32年には、「店」地内に高松小学校が新設され、隣接の大字木滝地内にも村役場、巡査駐在所が設置されるに及び高松村の中心地となりました。昭和16年、海軍飛行場建設のため、東山地区が強制買収され、粟生城跡並びに東台等の畑地2個所の表土が搬出されました。終戦後の昭和29年9月15日、1町4か村の合併により鹿島町大字粟生となり、昭和39年2月1日より鹿島開発による用地買収が始められるに伴い純農村から兼業農家へと変わり、進出企業の社宅建設や賃貸住宅の建設が相次ぎました。昭和50年には浜県道西側の10数戸が高天原粟生団地へ、同55年までに40数戸が板宮区、10数戸が押合区へ集団移転しました。また浜地先の海岸が埋め立てられ、大字新浜が誕生。平成7年9月1日に大野村との合併により鹿嶋市大字粟生となり現在に至ります。

卜伝2

粟生地区の小字の由来

 大字粟生の小字名にはさまざまな故事来歴があります。

「塚ノ前(ツカノマエ)」粟生店地区にあり、身元不明の塚の南方にある水田地帯。
「~町」水田地帯の呼称。
「ヒラスカ」店地区の居住地。微高地である。
「舞台(ブタイ)」店の東方。畑作地帯。微高地です。
「池(イケ)ノ下(シタ)」粟生池の下流地帯で水田地帯。
「御城(ミジョウ)・内御城(ウチミジョウ)・外城(トジョウ)」粟生城のあった位置を示しています。
「根古屋(ネゴヤ)・中(ナカ)ノ間(マ)」粟生城に関係のある者が住んでいました。

「ジムデン」元々寺社に納める田畑のあった所。神田。
「アラク」開墾等による新開地。
「作(サク)」谷に通じ、地形の入り込んだ所。
「作(サク)ノ前(マエ)」字「作」の南西方にある水田地帯。
「大谷津(オオヤヅ)」粟生池の北方、木滝境にあった水田地帯。
「十二神(ジュウニガミ)」十二神将をお祀りしている砂丘地帯。
「大(ダイ)ノ坊(ボウ)」二つの山頂から成り立っている砂丘地。
「東山(ヒガシヤマ)」粟生の東方にある山林・砂丘地帯。浜山とも云い、江戸時代は未開発地でした。

参考文献

 鹿嶋市史編さん委員会『鹿嶋市史 地誌編』平成17年2月18日


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