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明治・大正時代の学校

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記事ID:0050091 更新日:2021年3月29日更新

境内に設けられた学問所 稽照館―けいしょうかん―

鹿嶋の近代の学問所としては、まず明治2年に設置された稽照館が挙げられます。稽照館は、元々、神領会所(鹿島神領の役場)として使われていた建物を、会所が廃止されるに伴い、明治2年学問所として開設したものです。大鳥居向かって左、現在藤棚があるあたりに建っていました。

「稽照」とは、古事記の序文にある「古(いにしえ)を稽(かんが)ひ 今を照らす」から取ったもので、校長は鹿島神宮大宮司家鹿島則文が務め、講師陣は吉川久勁・北条時鄰・松岡正久・下生直温・萩原常規・塚原直興などいずれも鹿島神宮の神官達でした。『令義解』『日本書紀』『春秋左氏伝』『古事記』『日本外史』『祝詞考』などの国学・漢学の古典の講義が行われ、生徒たちは課題として長歌や短歌の作成なども行っていたようです。生徒は鹿島神領内の子弟だけではなく、波崎(現神栖市)や潮来(現潮来市)からも通うものがあったといいます。

しかし、版籍奉還・廃藩置県・神官神職制度の大改革・学制頒布などの明治の激動期にあたり、それまで神領として治めていた二千石も奉還することとなり、稽照館は自然消滅にいたりました。記録が残っておらずいつ廃止されたかはわかりませんが、その後、稽照館の講師陣の多くが私塾を開き、明治初期における地方教育の一端を担っていきました。

学制の発布

日本の近代的な教育制度は、明治5年8月の「学制」発布からはじまります。明治政府が発布した「学制」は、わが国最初の学校教育全般にわたった基本の法規で、小学・中学・大学の三段階を基本とし、小学校(下等小学4年・上等小学4年の計8年)は、基礎となる教育を施す機関として、不学の者をなくし、すべての国民の入学を期したものでした。

鹿嶋では、明治初期はそれぞれの地区の寺院・民家等で授業が実施されていましたが、明治中期頃になると本格的な校舎の建築がはじまります。明治20年代~大正初期頃にかけて高松・波野・豊郷・豊津・鹿島・大同・中野の各町村で小学校の校舎が建築されました。

明治期の小学校3校

明治期の教科書

小学読本 明治期

これは明治7年の文部省刊行の小学校教科書です。『小学入門』には、いろは図・五十音・カタカナ・数単位・九九の図などが書かれています。また『小学読本』の巻一のはじめにはこのような事が書かれています。

凡世界に、住居する人に、五種あり、亜細亜人種、欧羅巴人種、メレイ人種、亜米利加人種、亜弗利加人種なり、日本人は亜細亜人種の、中なり人の稽古に、種々ありといへども、先ず、書を読み、字を写し、数ふることを、学ぶを第一の務めとす、幼稚のときは必ず学校に行きて、稽古をなすべし。学校に至りては、何事も師匠の教えに順ひて、只管に勉強すべし。(『鹿島町史第4巻』より引用)

人種の考えが現代とは少し違っていたのか、現在では見られないメレイ人種という言葉がありますが、世界には様々な人種があり、日本人はどこに属しているのかが書かれています。続く文章には、学問の基礎である「読み」「書き」「数え」をまず学校で勉強すべしと書かれています。また第4巻には、「空気」の説明などもあります。

地球ノ周囲ヲ包ミテ、万物の内外ニ充満スル者ヲ空気ト云フ。其高サ凡二十余里。下ハ濃厚ニシテ、上ハ希薄ナリ。空気ハ其色薄クシテ透明ナルヲ以テ、人目ニ触レズト雖、其気充満セザル所無ク、草木此中ニ生茂シ、人畜其中ニ生活ス。今扇ヲ動カセバ風ヲ生ジ、又速ニ走レハ体ニ抗スルモノアルヲ覚ユ。是即空気ノ充満セル証ナリ。(『鹿島町史第4巻』より引用)

明治~昭和初期の学校風景

明治44年高小算術授業風景

大正時代 鹿島小

昭和初期学芸会 高松小学校

アメリカ人形歓迎式 高松・鹿島

参考文献

『鹿島町史第4巻』
『大野村史』
『図説鹿島の歴史近現代編』
『学制百年史』「二 近代教育制度の創始」(文部科学省)

避難所混雑状況