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明治維新後の鹿嶋
記事ID:0050089
更新日:2021年3月29日更新
明治維新と近代化への歩み
国政の近代化
慶応3年(1867年)10月徳川慶喜は朝廷に大政奉還し、同年12月王政復古の大号令が発布されました。明治2年(1869年)、版籍奉還が実施されて、所領・知行地の版図(領地)と戸籍(領民)が新政府の所管となりました。これによって、旧幕府の支配体制が崩壊し、官員(官僚)主導による統治体制が確立します。
地方行政の近代化
そして明治4年(1871年)廃藩置県により、旧来の藩制は廃止され、新たに県が設置されることになりました。地方行政の近代化が図られ、旧領主は罷免され、新たに県令(府知事)が政府から派遣されました。同年、戸籍法も公布され、領民はそれまでの「人別改め(宗門人別改)」から戸籍に編入されました。
茨城県への編入
茨城県が誕生し、鹿嶋市域が茨城県に編入される明治8年までに、鹿嶋市域の各地区は様々な変遷を辿りました。当初は、上総安房知県事(かずさあわちけんじ)の管轄だった地域と、松川県の管轄地だった地域があり、その後、宮谷県(みやざくけん)や新治県(にいはりけん)の管轄となる変遷を辿り、明治8年に茨城県の管轄となります。
このように明治初期には新しい県ができては消え、現在の形へと変遷していきました。こうして明治新政府の中央集権体制が整っていきました。
また、明治12年(1879年)3月には第一回県議会選挙が行われ、同年4月に茨城県師範学校を会場に県会第1回通常会が開会され、県の立法府としての県議会も始動しました。