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神武館騒動
鹿嶋への余波
高まる尊攘運動の余波は否応なしに鹿嶋にも押し寄せてきました。天狗党の筑波山挙兵の前年にあたる文久3年(1863年)、「報国正義隊」と名乗る浪士らが、鹿島神宮境内に神武館の建設を企図した「鹿嶋神武館騒動」が起きます。
報国正義隊の中心は、鹿島郡中村の倉川三郎や水府浪人鈴木秀太郎で、浪人や鹿島郡一帯の農民が参加し、最盛期には100人前後が参加していたといいます。
鹿島神宮の社家である惣大行事家が残した『惣大行事日記』には、文久3年(1863年)11月9日の条に、倉川三郎が「いかめしき出立」で訪問してきたことが記されています。倉川らは、根本寺を屯所として活動し、神宮の禰宜や関係者らの同意を取り付け、建設計画を進めました。12月に入ると根本寺に「大神武館報国正義隊当分屯所」と書いた杭を立て、金策などの具体的な行動を取り始めます。地鎮祭を強行し、建設用材として地域の庚申塔の石を集めたり、資金や奉納物そして職人を集め、用材を加工するなど着々と準備を進めていきました。
また、神仏分離や廃仏を徹底しようと、永い間鹿島神宮と歴史を共にしてきた神宮寺の本堂を焼き払いました。(当時、今の鹿島高校の東側あたりに、神宮寺が建っていました。この7年後、明治3年に神宮寺は廃寺となっています。)
翌年2月には根本寺本堂の仏像を破却して往来に晒し、その他の寺院の仏像も壊したり、無住の寺にまで天誅と称して破却を加えたのです。文久4年(1864年)には、元来神宮寺で執り行ってきた祭頭祭を、鹿島神宮の社人のみで行うことを正義隊は要求し、『惣大行事日記』には「先々拠所なき次第故、旧例と違い候ても今晩丈の処」と要求に従った事が記されています。
このような状況のもと、水戸藩は、文久4年(1864年)正月に武田耕雲斎を派遣して鎮圧に当たらせ、潮来に陣屋を建設しています。こうして、3月には浪人らは引き上げ五か月に及ぶ騒動に幕が下ろされました。