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水戸藩―改革派と門閥派の抗争

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記事ID:0050084 更新日:2021年3月29日更新

水戸藩主徳川斉昭

江戸後期、水戸藩では九代藩主徳川斉昭(烈公)の就任により様々な改革が行われました。斉昭は就任するや矢継早に改革を始め、それは多方面に及びました。改革の陣頭指揮を取るためには水戸に下る必要がありましたが、定府(藩主が通常江戸に在住すること)のため困難でした。ようやく天保4年(1833年)に就藩がかない、それ以後、人材の登用や検地をはじめ、社寺の改革・軍制の改革と演習・藩校「弘道館」と「偕楽園」の開設、郷校の増設、海防の備えなどを行うとともに、倹約を徹底し、藩士の土着化を進めました。

このような改革の功績が認められて褒賞を受けた斉昭でしたが、天保15年(1844年)突如幕命によって江戸に召喚され、致仕(引退)謹慎を命じられました。

改革派と門閥派

斉昭に代わり、新しく藩主となった慶篤は幼少であったため、三分家(連枝)が後見役となります。藤田東湖ら改革派は罷免され、斉昭の改革は頓挫します。(これを「弘化甲辰(こうかこうしん)の国難」と呼ぶ)。以後、新藩主を擁する門閥派(諸生派)と前藩主斉昭を支える改革派(天狗党)の対立が深まっていきます。

その後、斉昭への疑いを晴らそうと、藩士・町人・農民・神官・修験などの間に広範な雪冤運動が起き、数千人に及ぶ領民が参加したと言われます。中には黒澤登幾のように女性の身で単身京都に上京し、朝廷に雪冤を訴えるものさえありました。(※黒澤登幾:くろさわとき…明治維新後、日本初の女性小学校教諭として郷里の教育に貢献した。)

その甲斐あって斉昭はやがて復権を果たし、幕政に大きな足跡を残しますが、門閥派との抗争は一層の激しさを加え、幕末の動乱の一端を形成していきます。

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