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大掾平氏の台頭
常陸大掾平氏
― ひたちだいじょうへいし ―
東国は、144年続いた蝦夷討伐の際に、東北から都へ送られる俘囚の反乱によって、多くの荘園や郡家(郡役所)が襲撃されることがありました。その荘園を防御するために発生したのが武士の始まりです。
いつしか武士は広大な荘園を有し、地方を支配するまでになりました。その武士の勢力の一つ、東国の地に目立つ勢力を誇ったのが常陸大掾平氏の一族です。
常陸大掾氏は桓武天皇の系譜で、祖は平維幹(たいらのこれもと)とされています。「大掾」とは、本来、国司の「守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)」の四等官の3番目の判官クラスをさした言葉ですが、有力な在庁官人である維幹流の平氏の肩書として定着し、一族の氏名となりました。
大掾氏はその名が示すように常陸国府周辺を基盤とした在庁官人であり、国府に務める役人でした。平氏はこの国府の役人の肩書を利用して、周辺地域に一族を繁栄させました。
鹿島城の城主である鹿島氏も常陸大掾平氏の一族であり、平維幹(たいらのこれもと)の系譜の吉田氏清幹の子孫にあたります。常陸大掾氏は常陸国各郡郷に確固たる地盤を拡大し、その子孫は、行方、真壁、小栗、吉田、東條、鹿島、馬場の7家が7郡の地頭となって、常陸国の大半を支配しました。ここから中世常陸大掾一族の系譜を辿ることができます。
参考:常陸平氏略系図[PDFファイル/95KB](『鹿島中世回廊』より転載)
大掾平氏一族の台頭で、坂東は中央貴族中心から武士中心の政権へ変わっていきました。承平5年(935年)大掾平氏の一族である平将門が叔父平国香らを攻め殺し、常陸・下総国府を陥落させ(将門の乱)自らを親皇と称しました。天慶3年(940年)に将門は平貞盛・藤原秀郷軍と戦い敗死し、短期間のうちに将門のクーデターは終息しましたが、将門の乱は地方武士の台頭を促し、中央貴族政権の後退を示す大きな事件でした。
保元・平治の乱(1156年・1159年)の後、短期間のうちに高位・高官にのぼりつめ、勢威並ぶものさえいないとされた平氏全盛の背景には、地方各地での武士団の成長がありました。平氏一族の台頭の歴史は、いわば武士の発生の歴史とも置き換えることができます。