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水戸藩と鹿島神宮

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記事ID:0050052 更新日:2021年3月29日更新

鹿島神宮の御祭神、武甕槌神(たけみかづちのかみ)が武神ということもあって、水戸藩の鹿島神宮に対する崇敬は強く、将軍家が土地を御朱印地として寄進したり、社殿を奉納しています。

歴代藩主と鹿島神宮

水戸藩初代藩主 頼房(よりふさ)

鹿島神宮楼門

重要文化財に指定されている「鹿島神宮楼門」は、水戸藩初代藩主 徳川頼房(家康の11男)が寄進したものです。

― 楼門が建立されるまで ―

徳川家三代将軍が病気にかかった際、頼房は名代として斎藤市右エ門尉正利を鹿島神宮に遣わし、家光の病気平癒の祈祷を大宮司に依頼しました。大宮司は、祈祷が終わった後に、正利に「鹿島神宮の楼門と回廊が壊れてしまって、困っている。」という話をしました。
その後、家光の病気が快復し、頼房は楼門と回廊等を奉納する事を決めました。作業場を江戸浅草の水戸藩下屋敷に設け、江戸奉行に深沢四万助君重を命じ、寛永11年2月27日に「釿立の儀」を行い、材料を切組みました。これが、現在重要文化財に指定されている楼門です。(参考:『鹿島町史第1巻』)

このように、頼房は寛永11年に将軍家光の病気平癒のお礼に、楼門と回廊の修復・建立を行っています。
その後、白鹿を奉納し、慶安元年(1648年)には、参詣に訪れています。頼房が社殿の大床に上がった時に、鹿が二声鳴いたので、人々が「頼房公の敬神の誠心を鹿島の大神が享けられたのだ。」とこぞって話したとも伝えられています。(『鹿島町史第1巻』にはその時の参詣の様子が事細かに紹介されています。)

二代藩主 光圀(みつくに)

水戸黄門で知られる水戸藩二代当主光圀は、史実としては鹿島神宮に参詣した記録はありませんが、鹿島神宮の要石を七日七晩掘削したという伝説が残っています。(別ページリンク「かしまの伝説・むかし話」

九代藩主 斉昭(なりあき)

九代藩主 斉昭は弘道館や旭日丸船内へ鹿島神宮の御祭神の分霊を勧請したり、領内に鹿島社を建立し、幕末異国船現れたりするようになり国が大きく揺らいだ国難に際しては、祈祷依頼をしています。また、沼尾神社(鹿島神宮の摂社で鹿嶋市沼尾に所在)にも扁額を奉納しています。
天保5年には、500名を超える家臣を引き連れて鹿島神宮に参詣しており、歴代藩主最大規模の参詣でした。なお10代慶篤は『大日本史』を奉納しています。

水戸藩士と鹿島神宮

社人と藩士との交流も活発で、大宮司家と水戸藩士との縁組は5例にも及びます。また、鹿島神宮の大神に対する崇敬を示す詩文が、多くの藩士にみられます。

  • 藤田幽谷「鹿島祠」
  • 会沢正志斎「武雷神」
  • 吉田活堂「鹿島詣」
  • 国友善庵「鹿島」
  • 青山拙斎「鹿島紀行」
  • 茅根寒緑「鹿嶋之作」

など、他にも多くの和歌があります。

参考文献『図説鹿嶋の歴史 中世近世編』『鹿島町史第1巻』

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