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鹿嶋を訪れた僧侶

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記事ID:0050046 更新日:2021年3月29日更新

鎌倉時代、鹿嶋には浄土真宗の開祖・親鸞(しんらん)や律宗の僧・忍性(にんしょう)など、著名な僧侶が訪れています。

 親鸞(しんらん)と鹿島神宮 

浄土真宗の開祖・親鸞(しんらん:1173~1262年)は、建保2年(1214)に越後国から常陸国に入り、天福年間に帰洛するまでの約20年間、下妻・稲田(笠間市)などを拠点に布教を進めました。
親鸞が向かうところ、各地で布教の拠点が形成され、鹿島地方では、鉾田市の無量寿寺(むりょうじゅじ)が拠点になりました。のちに無量寿寺は弟子(親鸞は敢えて「同朋」と呼んでいました。)の順信(じゅんしん)に委ねられましたが、順信は、鹿島神宮大宮司家職を輩出する大中臣氏の出身でした。
無量寿寺を核に形成されたのが鹿島門徒で、鹿島門徒が本願寺に依頼して作成した『拾遺古徳伝絵』(無量寿寺所蔵)は現在国の重要文化財に指定されています。

当時の鹿島神宮は、多くの経典や仏典を所蔵する図書館的機能を備えていたと考えられ、親鸞も鹿島神宮へ訪れたと考えれれており、神宮に足繁く通ったその成果が『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』の執筆だと言われています。

 鹿嶋と忍性(にんしょう)

大和国(奈良県)西大寺、律宗の僧・忍性(にんしょう:1217~1303年)も鎌倉時代に鹿嶋を訪れた著名な僧の一人です。
忍性の師で、律宗の中興の祖と言われる叡尊(えいそん:1201~1290年)は、仏教の広まりの中で、人々が守るべき約束・戒律が疎かにされている風潮を嘆き、弟子を各地に遣わして戒律を守ることの大切さを説きました。そのなかで、常陸国に遣わされたのが忍性です。建長4年(1252)9月、忍性は常陸国の第一歩として鹿島神宮に参籠し、4か月間を鹿嶋で過ごしました。

忍性は社会事業にも積極的に取り組み、交通網の整備や管理なども行いました。大船津(鹿嶋市大船津)は、忍性が湿地を埋め立てて港を造ったと言われています。
また、鹿嶋市の南端部にある鰐川には、忍性が鰐を退治したという伝説があります。鰐川にはその昔、鰐魚(がくぎょ:現代で言うサメかワニのことであろうとされています。)が棲んでいて、民衆を悩ませていました。その鰐を、忍性が鹿島神宮の神木を伐って造った地蔵菩薩で退治したのだと伝えられています。

鰐川左岸より

いずれも伝承ですが、これは行方郡から鹿島神宮への交通路となる鰐川の渡河の管理権を律宗が持っていたことを暗示しています。
また、現在の笠間市を中心に勢力を誇った武将 笠間時朝が、鹿島神宮に一切経を奉納した際に、その入手に忍性が尽力したのではないかと言われています。一切経とは、経典を構成する経・律・論すべて(一切)を指すものであり、僧侶にとって仏典研究の最高資料となるものでした。

忍性は、建長4年の12月に筑波の三村山極楽寺に移り、弘長2年(1261)に鎌倉幕府に招かれて鎌倉に移るまでの10年間、常陸国で戒律を説くことに尽くしました。
鎌倉幕府の滅亡とともに、関東における律宗は後退しましたが、鹿嶋市をはじめ、茨城県内には忍性の足跡を偲ぶ場所が少なくありません。

参考・抜粋:『図説鹿嶋の歴史』中世・近世編

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