本文
文久三年 大宮司家に現れた妖火
記事ID:0050256
更新日:2021年3月29日更新
読み下し文
- 文久三年癸亥十一月朔日の夜五半時頃、予が宅奥座敷、予が、居十畳敷き也。南の方欄間の壁へ妖火現る。形丸くして、わたり四寸程、常の陽火の如く赫熒たり。
この時、燈消して暗夜也。予が妻は末女を抱き外しており、予は在府にて、側には、幼年の下女、一人他たり。 - 妻は久しく見て居りしが、不思儀ゆへ下女を、呼び起したれども、驚怖して、起出でず故に、別間に外れたる、則文を呼び起し其様を物語りければ、則文は、次の間まで走り来る時、妖火は、忽ち消失せて跡もなし。家来村田正一郎も、台所より走り来りけるが、廊下の辺にて妖火を、チラリと見たりと云う。その後更に行えを知らず。
- 同月十三日より、水戸浪士、俗に天狗党と称する、暴徒数十人、神領中、下生、根本寺に屯集して、近村を騒動し、後に、予父子、大難に遇たる、凶兆なるべし。
解説
- 文久3年(1863年)11月1日に則孝公の自宅に現れた妖火について書かれています。夜五つ半時とは、夜9時頃です。直径4寸ほどの丸い妖火は、則孝公が(江戸に居て)不在の際に出現したと書かれています。
- 〔意訳〕妻はしばらくその火を見ていたが、不思議に思って傍にいた幼い下女を呼んだ。下女は恐怖で起きて来られず、妻は別間にいた則文(息子)を呼んだが、則文が走ってくる間に妖火は消えてしまった。台所から駆けつけた家来の村田正一郎も、廊下のあたりで妖火をちらりと見たという。
- 〔意訳〕この怪奇現象は、同月13日に天狗党と称する水戸浪士の暴徒らが根本寺(鹿嶋市下生)に頓集して近隣を騒がし、その騒動で後に私たち親子が大難に合う凶兆だったのだろう。
※「鹿島神宮に神武館を建て攘夷運動の拠点にしよう」と天狗党の浪士らが活動していたために、その騒動に加担したとみなされ、息子則文氏は八丈島へ流罪になり、則孝公自身も大宮司の職を召し上げられるなどの処罰を幕府から受けました。