ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 分類でさがす > 歴史・文化 > 歴史・文化 > 歴史 > 鹿嶋デジタル博物館 > 「坂下門外の変」「天狗党・根本寺屯集」

本文

「坂下門外の変」「天狗党・根本寺屯集」

印刷用ページを表示する 大きな文字で印刷ページ表示
記事ID:0050248 更新日:2021年3月29日更新

「坂下門外の変」
同二年壬戌正月十五日、浪士等、老中安藤對馬守を、阪下門外に於て、刃傷に及ぶ。

(1)此時予は、幕府年頭の礼として在府、同日朝は、例年水戸家へ年始嘉儀、使者以て申述る故、家臣村田正一郎差出し、それより大塚の松平大学頭へ、玉串進上として廻り候ところ、同人たち帰りて、今日巳之刻頃、大塚あたりにて藩士躰の者数多、凡そ百人余鎗を引提げ、草鞋または足袋はだしなどにて、袴羽織、或袴のみ着、又着流しなどにて、甚周章の体に皆南方へ向て、奔走する由ゑ、最寄に尋候処、大塚の安藤殿下屋敷の藩士、上屋敷へ詰候。不審の由に申候と申聞候。是より先、旅亭津久井屋新三郎、橋本町四丁目、の家代共の話にて、此珍事承知せり。

後日に委しく聞ば、安藤は面部に加春り傷一ヶ所、背後に長さ二寸の傷、一ヶ所なりと。或ハ腰を切られ多りとも云。いずれも浅傷の趣也。當日は、加篭にて、阪下門内へ逃げ入たりと。其臣下も十六七人負傷あり。浪士も死傷あり。又本日は、安藤登城の途中也と云。桜田以下浪士事件は、飛鳥川の記に委細誌あり。

「天狗党・根本寺屯集」
(2)同三年癸亥十一月十三日より、浮浪徒、下生根本寺に屯集して、神領及び近郷を、騒擾す。是より前、潮来村小川村、其外、水戸領諸所に屯集す。翌元治元年三月に至り、近郷は鎮静。又秋に至り、那珂郡湊及び鉾田村、宮中等へ、脱走の浮浪徒止宿。冬に至り全く鎮静。委細別紙尓記す。

解説

「桜田門外の変」の翌年に、幕府の老中安藤對馬守が浪士らに斬りつけられる「坂下門外の変」(1862年)が起きます。

(1)この時則孝公は、正月の「年頭の礼」のため江戸におり、則孝公の家臣が偶然に「坂下門外の変」の浪士らが走り去る様子を目撃したと書かれています。

〔意訳〕「年頭の礼」のために使者(村田正一郎)を大塚(東京都豊島区)の松平大学頭の屋敷に遣わしたところ、戻ってきて、「今日午前10時頃、大塚あたりで藩士の恰好の者ら百人程が、槍を引っ提げて、草鞋・足袋・裸足などで、羽織袴あるいは袴のみ、または着流しなどの恰好をし、ひどく急いだ様子で南に走って行った。近くの人に訪ねたところ、大塚にある安藤殿の下屋敷の藩士らが上屋敷に詰め寄ったとのことです。」と言う。後日、詳しく聞いたところによると、安藤對馬守が江戸城に登城する途中で浪士らに斬りつけられ、背中や腰などに浅傷をおったが、駕籠で江戸城の坂下門の中へ逃延びた。家臣16~17人が負傷したほか、浪士らにも死傷者があった。

(2)さらに翌年(1863年)の11月13日には、鹿島の根本寺に浪士ら(天狗党の一派)が集まり、鹿島でも騒動が起き、「冬に至り全く鎮静」したことが書かれています。

ここ鹿島の地では当時、幕府軍追討軍と天狗党の一派の戦いが繰り広げられ、最終的には天狗党の浪士ら23名が下生(鹿嶋市宮中)で打ち首にされました。<天狗の鹿島落ち>。この時打ち首にされた23名は、馬捨て場に運ばれて埋葬されましたが、明治11年頃に有志により「殉難諸士乃墓」という墓碑がたてられ、現在鹿嶋市の市指定史跡になっています。

避難所混雑状況