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幕藩体制とかしま
慶長8年(1603年)、徳川家康は征夷大将軍となり江戸に幕府を開きました。家康は、前年慶長7年に鹿島神宮に神領として二千石を寄進し、また慶長10年には “ 関ヶ原戦勝記念 ” として本殿(現在の奥宮本殿)を奉納しています。
鹿島郡は安房国館山藩里見氏、土井氏の支配を経て、寛永9年(1632年)に分地が行われ、翌年村々へ通達がありました。江戸時代の鹿嶋市域は、旗本知行・鹿島神領・天領等が混在しており、それぞれの村が領主や地頭によって治められていました。
旗本知行地
将軍直属の家臣、「旗本」階級の武士が治めていた土地です。相給(あいきゅう)といって、一村を複数の旗本が知行して、一村分割統治を行っています。実務は用人と呼ばれる家臣たちが村方への出納や布達を行っていたようです。
鹿島神領(宮中村・根三田村)
社務所の中に支配所が設けられ「神領役場」と称していたようです。(後に、宮中地区の個人から会所が寄進され、その会所が役場の機能を果たす様になります。)。庶務や出納は、神職の禰宜らが行っており、年貢米の収納は「代官番(だいかんばん)」に任命された町名主が行っていました。
藩領(守山藩)・天領
藩領と天領は郡奉行所が治めていたようです。守山藩は松川村(大洗町松川)に郡奉行所がありました。
鹿嶋市域のどの地域が何領だったかについては、神領以外は複雑でわかりにくいものになっています。各地の幕末時点の領主を調べた『旧高旧領取調帳』によれば、
【松川(守山)藩領】青塚・荒野・小山・津賀・清水・神向寺・平井・国末・泉川などの一部
【天領】沼尾・山之上・爪木などの一部
それ以外の地域はそれぞれ様々な人物の旗本知行地だったようです。
例えば、松川藩領があった平井村でも、「松川藩領・丸毛内匠知行・戸田謹吾知行・小野源右衛門知行」が混在しているのが見て取れます。
それぞれの村では、名主・庄屋・組頭・百姓代といった村役人がおり、末端の自治組織である五人組を介して村内の経営にあたっていました。