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南北朝の動乱と常陸国

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記事ID:0050047 更新日:2021年3月29日更新

南北朝の動乱

初めての武家政権であった鎌倉幕府が、元弘3年(1333)5月に足利高氏(後に尊氏に改名)・新田義貞らによって攻め滅ぼされ、翌年、建武元年(1334)に後醍醐天皇を中心とする「建武の新政」が開始されました。

しかし、後醍醐天皇政権が目指したのは貴族社会の復活であり、前政権下で失った所領の回復と加増を求める多くの武家の期待を裏切るものでした。その彼らの不満を吸収して武家の棟梁として地位を確立したのが足利尊氏です。
後醍醐天皇は吉野へと移り、公家政治復活を目指す南朝と、武家政治の継続を掲げる北朝の二つの朝廷が存在するという南北朝動乱の時代が始まります。

南北朝の動乱と常陸国

北朝は、延元元年(暦応3年/1338)足利尊氏を征夷大将軍に任命しました。尊氏は、この前年に佐竹貞義を常陸国守護に任命するなど、武家政権樹立を見越した足固めを行っています。。

常陸国は、鎌倉幕府の崩壊に伴って、幕府の多くの土地が、建武政権に吸収されたことから、南北両勢力による領地の争奪戦が激化した地域でした。

鹿島氏・烟田氏・林氏などの鹿島氏一族は、北朝方として、佐竹氏や高師冬(こうのもろふゆ)に従い、延元元年(暦応3年/1338)に常陸国に入った南朝方の重鎮・北畠親房と戦いました。

北畠親房が拠点とした、神宮寺城(稲敷市)・阿波崎城(稲敷市)は、鹿島氏・烟田氏に攻められ、親房は小田城(つくば市)・関城(関町)と転々と移りますが、高師冬・鹿島氏・林氏の攻撃に合い、康永2年(興国4年/1343)に吉野へと敗走し、常陸国は北朝方によって制圧されました。

南北朝・室町時代の茨城県・栃木県東部の画像

※南北朝の時代は、朝廷が2つあったため、南朝・北朝それぞれの朝廷で定めた元号があります。ここでは、どちらの年号も併記しました。

参考文献:『図説かしまの歴史 中世近世編』『鹿島中世回廊 古文書にたどる頼朝から家康への時代』

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