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源頼朝の台頭と鹿島氏
治承4年(1180年)8月、平清盛を討つため挙兵した源頼朝は、東国武士団の帰属をはかりました。常陸国では、源氏である佐竹隆義・秀義父子が清盛に与して頼朝に叛旗を翻し、鹿島一郡に地盤を築いていた鹿島氏はこれに従いましたが、佐竹氏を降伏させた頼朝は、これを罰することはありませんでした。
鹿島政幹は帰順の意思を表明するため、自らの子である宗幹・弘幹兄弟に一族郎党一千騎余をつけて鎌倉へと送りました。頼朝は、鎌倉を根拠地に定め、侍所を置いて武士団の結束を図りました。翌年(1181年)には清盛が死に、平家はその主柱を失いました。
鎌倉では源義経と源範頼が参陣し、平家追討の軍団が編成され、宗幹と弘幹は義経の軍に配属されました。二人は「屋島の戦い」で平教経(たいらののりつね)の軍と激突し、戦死しました。
頼朝は領地を鹿島神宮に寄進し、鹿島政幹を鹿島社惣追捕使(そうついぶし)に任命して、神領内の治安と仕置きの執行に当たらせました。これは、頼朝の鹿島神宮への崇敬心の顕れと、武家勢力を神宮の中へ注入すること、更に鹿島氏の源氏に対する忠誠心を嘉したということでしょう。
鹿島氏はその後、鹿島政幹8世の孫の幹重が鹿島惣大行事(そうだいぎょうじ)に任命されて、惣追捕使は大中臣氏(木滝惣追家)の職となりました。鹿島氏初代の成幹・政幹と二代に渡って築かれた鹿島一郡の地盤は、代々引き継がれ、天正19年(1591年)二十代鹿島清秀の時に鹿島城の落城を迎えるまで、その所領でした。
鹿島城落城後も鹿島氏は鹿島惣大行事家として存続し、時代の波に揉まれて変遷し、絶家の危機に遭遇しながらも、約700年を経た明治維新を鹿島神領支配役の一家として迎えました。