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鹿嶋市
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最終更新日時 2008年07月07日 18時18分 文書番号 000003389 印刷ページ   スマートフォン版

塚原卜伝紹介

情報発信元:経済振興部 商工観光課

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キャンペーンキャラクター「ぼくでん」 塚原ト伝(ぼくでん)は、今から約500年前の、戦国時代の剣豪です。応仁(おうにん)・文明の乱(1467~1477)という大きな内乱から22年ばかり過ぎた延徳(えんとく)元年(1489)の2月に、常陸国(ひたちのくに)鹿島(現在の茨城県鹿嶋市)に生まれました。
 父の吉川左京覚賢(よしかわさきょうあきかた)は、鹿島神宮に仕える卜部(うらべ)氏であると同時に、「鹿島の太刀(たち)」という古くからの剣法の継承者でもあり、鹿島城の家老もつとめる家柄で、座主家(ざすけ)として正等寺(しょうとうじ)という寺にも関係していました。
 この吉川家の二男として生まれたト伝は、幼名(ようみょう)を朝孝(ともたか)といい、5~6歳の頃、5キロばかり離れた塚原城の塚原土佐守安幹(とさのかみやすもと)の家に養子に行き、永正(えいしょう)2年(1505)16歳で第1回の廻国修行に出て行きます。
 元服した朝孝は塚原新右衛門高幹(しんうえもんたかもと)と名乗り、京都の清水寺付近で最初の真剣勝負をして相手を打ち負かしております。それから約15年という長い間、多くの戦いに加わり、剣の修行も重ねたことでしょう。
 通説となっている「真剣の試合19度、戦場の働き37度、一度も不覚を取らず、矢傷6ヶ所以外に傷一つ受けず、立会って敵を討取ること212人」という話のほとんどを、この第1回の修行の折に経験したものと思われます。
 さらに、この第1回の廻国(かいこく)修行は、京都を中心に戦乱の中での修行であり、人の死をみる事が多く、世のむなしさにやがて心を病み、永正(えいしょう)15年(1518)頃、故郷の鹿島へと戻ってきたと思われます。

とんぼ絵1

 あまりに変わり果てた姿を見て、実父と養父は相談の上で、当時の鹿島を代表する剣士で鹿島城の家老でもある松本備前守政信(まつもとびぜんのかみまさのぶ)に預け、備前守は高幹に千日間の鹿島神宮への参籠(さんろう)を奨(すす)めました。高幹(たかもと)は荒れた心を鎮(しず)め、自己の剣を振返りつつ修行に励(はげ)み、ついに鹿島の大神より「心を新しくして事に当れ」との神示を頂き悟(さと)りを開いた高幹(たかもと)は、ト部の伝統の剣を伝えるという意味でト伝(ぼくでん)を号(ごう)したと考えられています。
 その後ト伝は備前守のすすめで大永(たいえい)3年(1523)に第2回の廻国修行に出発します。このときは、西日本から九州大宰府(だざいふ)あたりまで足を延ばし、山陰地方へも訪れたのではないかと思われていますが、この第2回は、世に知られる剣豪になる以前のことで、その行動が定かではありません。
 しかし、この武者修行ではト伝は2本の木剣に紐を通して背中に背負い、訪れた先々で人々に剣を指導したと思われます。東北では童たちにいじめられていた猿を助けたため、やがて危機に陥ったときにこの猿に助けられるという伝説もありました。
 このように私共の知らないト伝の話が各地に残っているのではないかと思います。もし、卜伝のことで伝えられていることがありましたら、ご一報頂きたいと思います。また、時代が分らず、事実かどうかが不明であっても、ト伝のことでしたらぜひ教えを頂きたいものです。

とんぼ絵2

 第2回の廻国修業中に実父の死が伝えられてト伝は10年程で修業を終え、天文(てんぶん)の始めの年(1532)頃、鹿島へ帰ります。そして、塚原城に入って城主となり、天文(てんぶん)2年の頃、妙(たえ)という妻を娶(めと)って城の経営と弟子の育成に力を尽くします。
 10年程充実した年が過ぎ、天文(てんぶん)13年(1544)春になって妻が病で亡くなると、ト伝は養子彦四郎幹重(みきしげ)に城主の地位を譲り、弘治(こうじ)3年(1557)第3回の廻国修業に出発します。70歳近いト伝は、自分が完成した「一(いち)の太刀(たち)」という『国に平和をもたらす剣』を伝えるべく、将軍足利義輝(よしてる)を始め、義昭(よしあき)、細川藤孝(ふじたか)などに指導をし、なかでも義輝(よしてる)将軍は剣豪の域に達しています。やがてト伝は伊勢国(いせのくに)(三重県)へ入り、伊勢国司(いせこくし)の北畠具教(きたばたけとものり)に約2年指導し、唯授一人(ゆいじゅいちにん)の「一(いち)の太刀(たち)」を具教(とものり)に授けます。
 ト伝が具教(とものり)に伝授した「一(いち)の太刀(たち)」は現在鹿嶋には伝わっておりませんが、剣の究極の「人の和」を表現する思想的な剣技と思われます。
 具教(とものり)はト伝を敬愛し、具教がト伝のために用意した屋敷跡、塚原という広大な土地、塚原公園、塚原橋、塚原観音など、ト伝の名を伝えるものが現在でも残っています。
 伊勢を離れたト伝は甲斐国(かいのくに)(山梨県)を目指して進みます。美濃国(みののくに)(岐阜県)より信濃国(しなののくに)(長野県)への旅の途中、白骨(しらほね)温泉の「中(なか)の湯」近くの梓川(あずさがわ)べりに湧(わ)く温泉で英気を養ったようで、崖の中腹に現在でも「ト伝の湯」が残されています。
 甲斐国(かいのくに)では武田信玄に剣技を披露し、信玄を始め武将たちに指導したらしく、今川家から武田家へ移ってト伝を案内した山本勘助を始め、原美濃守(はらみののかみ)、海野能登守(うんののとのかみ)などが弟子となっています。
 『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』によれば、ト伝は大名の様な待遇を受けていた様子が残され、武田家がト伝を厚遇したことが分ります。
 やがて、甲斐(かい)を辞したト伝は下野(しもつけ)の唐沢城の城主佐野修理太夫昌綱(しゅりだゆうまさつな)の居館(きょかん)に滞在して、5人の子のうち上3人に剣を教え、二男天徳寺了伯(てんとくじりょうはく)、三男祐願寺(ゆうがんじ)は後に武芸者として世に知られました。

とんぼ絵3卜伝肖像画
 常陸国(ひたちのくに)(茨城県)へ帰ってきたト伝は、江戸崎の弟子諸岡一羽(もろおかいっぱ)の家にも立ち寄って、永禄9年(1566)頃、第3回の廻国を終えて鹿島の塚原へと帰りました。
 5年程過ぎて、元亀2年3月31日(1571)、ト伝はこの世を去ります。戦国の世を生きて30有余年の廻国を果たし、平和を願った剣豪は83歳の生涯を閉じましたが、その高い剣の理想から、いつしか人々は剣聖の名を献(けん)じるようになったものです。














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